競馬コラム北の国から vol.160

「昭和」は1926年12月25日に始まったため今年のクリスマスイブでちょうど100年が経過したことになる。12月28日の有馬記念は「昭和101年目の最初のGⅠ」となるわけだ。筆者は昭和の半分程度、「100年」の3分の1程度しか体験はしていないが、それでも子どもの頃から競馬場に通っていた昭和40〜50年代と比較すると、現在の競馬は大きく様変わりしている。
まずは馬券発売窓口。JRAホームページに掲載されている「JRAのあゆみ」を見ると、昭和32年12月に「中山競馬場で勝馬投票券発売集計器(トータライザー)を導入」と記載されているのだが、おそらくこれは試験導入の段階で、すべての競馬場ですぐに導入されたわけではないだろう。40年代はまだ単勝・複勝と枠連の組み合わせごと、金額ごと(200円券か1000円券=特券=)に窓口が分かれていた競馬場もあったように記憶している。オッズ掲示もなく窓口の混雑状況で人気を予想し、レース後に総売り上げと的中馬券の売り上げ票数が表示されるので、そこから主催者よりも早く暗算で払戻金を計算していたものだ。地方競馬のトータライザー導入・普及はさらに遅かった。北海道のばんえい競馬では昭和50年代後半になっても組み合わせごとの発売窓口が継続されており、電光掲示板すらなく、馬名は1頭ごとにペンキで手書きの看板がパドックに掲示され、投票数は黒板にチョークで手書きされていたものだった。レース後、それほど時間を経ずにこの投票数黒板が掲示されていたので、チョークで数字を書く達人がいたのだろう。
レース観戦は、大型ビジョンが東京競馬場に初めて設置されたのは昭和59年で、それまでは場内に設置された小型テレビや双眼鏡が頼り。競馬観戦には双眼鏡が必携だったが、「貸し双眼鏡」が「貸し座布団」とともに出店していた。双眼鏡は借りる時に数千円程度の補償金が必要で、なかなか敷居の高いレンタルだった。場内や場外発売所のテレビは昭和40年代前半まではモノクロだったため、帽色や勝負服の色が判りにくかったし、カメラもいまのような高解像度ではなく望遠機能も低かったので、映像を見ていただけではなかなかレース展開が判らなかった。
レース実況放送でいまと大きく違うのは数字の読み方。1(いち)番は「ひとつ番」、2(に)番は「ふた番」というように、以前の数字の読み方は「ひとつ、ふた、さん、よん、ご、ろく、なな、はち、ここのつ、とお、じゅうひとつ」と発音していた。これは「いち」と「しち」、「じゅう」と「きゅう」など聞き間違えが起きないようにするためで、馬番・枠番も配当金・オッズもこの数字の読み方だった。現在は数字を読む際には画面でも表記されるため一般的な読み方になっているが、古い競馬ファンはいまでも「ひとつ番」「ここのつ番」「ふたひゃくとおえん」の方がすっきりするのではないだろうか。
競馬自体は年々進化を遂げており、昭和30〜40年代と現在とではとてつもなく大きなレベル差があるだろう。世界を席巻するようなハイレベルの競馬が楽しめるという点では、現在の方がエンターテイメント的には優れている。当時は史上最強馬と呼ばれていたシンザンやシンボリルドルフが現在にタイムワープしてきたとしても1勝クラスも勝てないことだろう。野球で言えばベーブルースがいまの球速160㌔ロの投手と対戦したら、おそらくボールにかすりもしないのと同様だ。それは歴史を否定することではなく、歴史を積み重ねてきたからこそ、いまのレベルに到達してきたということだ。
だが昔だからこその競馬の楽しさもあった。その一つが「東西対抗」の意識だ。いまでもJRA馬は美浦と栗東という東西のトレセンに分かれて所属しているが、高速道路整備、競走馬輸送技術などの発展もあり、関東馬が関西の競馬場へ、関西馬が関東の競馬場へ遠征することはどんな条件でも当たり前になっている。だが昭和40〜50年代までは東西の隔たりが大きく、3歳5大競走や天皇賞、有馬記念でなければ東西の有力馬が相まみえることが少なかった。それだけに大一番で東西の№1ホースが激突すると、競馬ファンも東西に分かれて熱狂的な応援合戦を繰り広げていた。野球の巨人‐阪神戦と同様で、東西対決というのは日本国民を熱狂させるものなのだ。特に盛り上がったのは昭和45年3歳クラシック、東のアローエクスプレスと西のタニノムーティエの「AT対決」、昭和51年3歳クラシック、東のトウショウボーイと西のテンポイントの「TT対決」だろう。アローとタニノの初対決は皐月賞トライアルのスプリングSだったが、アローはデビューから6連勝、タニノは11戦9勝で重賞3連勝中。初対決のスプリングSは4分の3馬身差でタニノが1着、アローが2着、3着メジロムサシ以下は6馬身離れる一騎打ちだった。直接対決2戦目の本番・皐月賞も頭差でタニノが1着、アローが2着、3着以下は3馬身離され、やはり究極の一騎打ちで決着した。テンポイントとトウショウボーイは無敗同士で皐月賞が初対決。1番人気は5連勝中のテンポイントだったが、トウショウボーイが5馬身差で圧勝した。TT対決はその後、古馬になっても続き、昭和の名勝負史を鮮明に彩った。
個人的に昭和の名馬を1頭挙げるとしたらスピードシンボリを推したい。昭和40年にデビューし、生涯成績は43戦17勝。重賞は有馬記念連覇など12勝。42年と45年の2度、年度代表馬に選出されている。年度代表馬に2度選出された馬は計11頭いるが、このうち8頭は2年連続。ジェンティルドンナとアーモンドアイは1年空けての受賞で、2年空けての受賞はスピードシンボリだけ。それだけ長い間頂点に君臨していた証だ。米国、欧州遠征も行い、日本馬として初めて凱旋門賞にも挑戦した。6歳時に勝った有馬記念は、凱旋門賞から帰国してわずか2か月半後のぶっつけだった。7歳末まで走り、主だった重賞競走には必ずと言っていいほど「スピードシンボリ」の馬名があった。ひたむきに懸命に走り続けるその姿は、まさに昭和の日本人の勤勉な姿を象徴していたかのようだった。