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競馬コラム北の国から vol.154

競馬コラム北の国から vol.154

 最近は日本馬の海外遠征が急増し、海外レースを馬券発売するレースも増えてきたため、海外レースの映像を見る機会も増えてきた。欧州、米国、南米、豪州、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、カタール、韓国など、それぞれの国の特徴ある競馬を、気軽に映像で楽しめるようになってきた。以前は日本馬が遠征している凱旋門賞ですら映像は見られなかった時代があったし、見られたとしてもレース後かなり時間が経過してからだった。それがいまや生中継で見られるのだから、映像情報伝達の進化には隔世の感を抱く。  

2月2日に珍しいレースの映像を見た。インド・マハラクシュミ競馬場で行われたインドダービー(インドGⅠ・芝2400メートル、1着賞金約3000万円)で、日本からクリストフ・ルメール騎手が騎乗したことで、中継映像がネット上にアップされたのだ。インド競馬を見るのはじつに久しぶりのことだったが、競馬場のコースの美しさ、レースレベルの高さに驚かされた。言われなければ欧州の競馬場と勘違いするほどだった。  

日本競馬とインド競馬とのつながりは、1968年に種牡馬ハクチカラがインドに寄贈されたことから始まった。ハクチカラは日本馬として初めて海外重賞制覇を果たした名馬。3歳時の1956年に日本ダービー、4歳時に天皇賞(秋)、有馬記念を制し、5歳時から長期の米国遠征にチャレンジ。遠征11戦目となった6歳2月のワシントン・バースデーH(芝2400メートル)で遂に米国重賞制覇を果たした。当時は日本競馬と米国競馬でははるかにレベルが違う時代だったし、戦後からまだそれほど年数が経過していないこともあっただけに、ハンデの違いはあったものの歴史的名馬のラウンドテーブルをはじめ米国の一流馬を破ったハクチカラの快挙は、まさに「日本のヒーロー」誕生だった。日本生産馬の米国重賞制覇はその後、2002年サンデーブレイクによるピーターパンS、日本調教馬としては2005年シーザリオのアメリカンオークス招待Sまでなかった。  

米国から帰国後に種牡馬入りしたハクチカラだったが、主産地の日高ではなく青森での供用となったため交配牝馬に恵まれず、活躍産駒を輩出することもできなかった。当時は輸入種牡馬が偏重されていた時代でもあり、ハクチカラは1968年にインドに寄贈されたのだ。私はハクチカラの現役時代をリアルに見ていたわけではなかったが、日本競馬のヒーローがインドという競馬未開の地に輸出されてしまうというニュースを聞いた時には大きなショックを受けたものだった。1981年の第1回ジャパンCに「インドのシンザン」と称されていたオウンオピニオンが来日し、蹄鉄をはかずにレースに出走。15頭立て13着に敗れ、インド競馬のレベルを日本で目の当たりにした。「ハクチカラはこんな国で種牡馬になっているのか」と残念な気持ちになったものだった。  

だが後にその思いが間違いだったことに気が付いた。オウンオピニオンは確かに勝ったメアジードーツから3秒4も離されていたが、カナダの重賞勝ち馬であるブライドルパース、ミスターマチョには先着している。走破タイムの2分28秒7は、その年の日本ダービーを勝ったカツトップエースの2分28秒5と0秒2しか違わないのだから、長距離遠征、気候の違い、馬場の違いを考えれば立派な競走内容だったと言える。また、ハクチカラはインド国立クニガル牧場という立派な種馬場でけい養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタセントレジャー、カルカッタ金杯、マドラスレースクラブC)、ゴールドファインダー(カルカッタオークス)、トップスピン(カルカッタダービー、カルカッタセントレジャー)というクラシックウイナーを続々と輩出。26歳の高齢まで大切にけい養されていたのだ。インドは決して「競馬未開の地」ではなかった。  

そして今年のインドダービーである。ルメール騎手が騎乗したサイキックスターは14着に敗れたものの、勝ったランケリーノの父は、ディープインパクト産駒で日本でマイルCS2着2回、安田記念3着などマイル戦で大活躍したフィエロだったのだ。ディープインパクト産駒の種牡馬であふれ返っている日本では交配牝馬集めに苦労すると考えられてのインド輸出だったが、この血統と競走実績があれば欧州でも種牡馬として活躍できたレベルだったと思っている。そのフィエロ産駒が美しい芝のマハラクシュミ競馬場のコースで躍動し、勝ちタイムは2分28秒71。日本の芝ほどは速くないものの、欧州の芝コースよりも速いタイムで駆け抜けた。インド競馬の急成長を感じたと同時に、直接的には血が継承されているわけではないにしても、半世紀以上前からハクチカラが築いた歴史の土台を、いまフィエロが継承してさらに成長させていることを実感できたインドダービーだった。