競馬コラム北の国から vol.167

3月半ばに競馬界にとってショッキングなニュースが流れた。日高地方のJRA・GⅠ馬も輩出している中規模牧場の男性スタッフが子馬に乱暴を振るう映像が、YouTube動画チャンネルで配信されたのだ。子馬は生後20日ぐらいだという。文章にするのも気分が悪くなるものなのでここでは映像の詳細には触れないが、その行為は「しつけ」をはるかに超える「虐待」であると、映像を見た多くの人が感じたことだろう。寄せられた多くの批判に対してこの牧場はSNSで「人に危害を加えそうになったのでしつけをしていた」などと強く反論したが、間もなくそのアカウントも削除され、後日に別のアカウントで謝罪した。それでも騒ぎは収まらず、多くの競馬関係者がこの行為を非難するコメントを発表する事態になっている。その牧場が所在する町の畜産担当課は、動物愛護法違反の容疑で警察に状況を話しているとの報道もあった。
動物に対して暴力を振るう行為(もちろん人間に対しても当然のことだが)は、例えそれが猛獣であったとしても許されるものではない。例えば動物園ではどう猛な動物も飼育しており、以前は道具などを使用することによって人間の優位性を示す手法が取られることもあったが、それも昭和までの話である。いまは細心の注意を払いながら、気長にしつけを繰り返していくことが飼育方法として定着している。家庭で飼育しているペットの犬も、確かに一部には土佐犬、ピットブル、ドーベルマンなど危険な犬種もいるが、それでもいまは力づくで従わせるようなことはしていない。通常の愛玩犬に、例えばトイレに失敗した時に手を挙げるような嘆かわしい飼主が一部にいることは否定できないが、そのような人に犬を飼う資格などないはずだ。
馬は草食動物であり、基本的には温和な性格をしている。闘争心が旺盛なサラブレッドのような競走馬の場合、気性の激しい馬も中にはいるが、生まれつき人間を襲うような性格の馬は見たことがない。よく「暴れ馬」という表現がされる馬がいるが、それは単に気性が激しいか、人間に虐待されて強い不信感、恐怖心を持っているような馬なのではないだろうか。ましてや、生まれて20日程度の馬の赤ちゃんが、人間に対して反抗心を持つことなど、通常なら考えられない。もちろん、生まれて初めて体験する出来事全てに、大きな不安感を抱いているのは確かだ。特に唯一の味方である母親から引き離されるようなことは恐怖でしかない。得体の知れない人間に触られるのも嫌に決まっているし、できる限りの抵抗を試みようとするのも当然の仕草であるはずだ。蹴ろうとしたり噛みつこうとしたりするのも、自分を守るための自然な行動だ。それを「人間に危害を加えようとしている」とは、とんでもない思い違いである。そのような子馬の恐怖心、不安感を、じっくりじっくりと時間をかけて取り除いていくことこそが「育成」なのだ。
子馬を優秀な競走馬に育てるためには、人間に触られることに慣れてもらうこと、その恐怖心を取り払うことが何よりも重要になってくる。そのため生後直後からスタッフは子馬に触り、優しくブラシをかけ、肛門に体温計を入れるトレーニングをしなければならない。特に敏感な肛門に異物を入れられることには、最初は当然、強い恐怖感を抱くため、蹴ろうとするのも当然だ。だが常に声をかけて、触っている手を顔から次第に下半身に伸ばしていき、お尻まで触っても大丈夫なように根気よくトレーニングし、それから体温計を差すことが怖いことではないことを教えていくのだ。それは頭絡をつけること、そして人が騎乗することへ繋がっていく。子馬の時から乱暴に扱われていたら、いざ騎乗しようとしても振り落とそうとするなど、競走馬として仕上げるのがとてつもなく大変になってくる。もちろん大切にじっくりと育てても、何かの拍子で人間に逆らうような性格になってしまう場合もあるが、それも時間をかけてクリアしていくしか手はないのだ。
基本的に馬は人間に対して友好的である。例えば、ひき馬をしている時にひいている人の足を踏むことはほとんどない。人間が踏まれないように上手くひいているだけのように見えるかもしれないが、実は馬の方も踏まないように気を付けているのだ。それは目の悪い馬をひいた時にはっきりと判る。白内障などで目が不自由になっている高齢の馬をひいているとよく踏まれるのだ。また、若馬の放牧地に入るとみんな我先にと寄ってきて「遊んで、遊んで」と顔を擦り付けてくる。激しく顔を擦り付けられると痛いこともあるし、甘噛みをされることもある。「相撲」を取ろうと立ち上がって覆い被されるのはたまったものではないため逃げるが、それも友好の証である。恐怖心を与えなければ、まず蹴られることはない。
ただし種牡馬を扱う場合は、人間が危険にさらされるケースも時にある。特に種付けシーズンの種牡馬は興奮状態だし、高栄養価のカイバが与えられているため、気性がかなり荒くなっていることがある。馬体も現役時代よりも100キロ以上大きくなっていて、パワーも物凄い。かなり以前の話だが、気性の激しい種牡馬に蹴られて担当者が相次いで2人も死亡した悲しい事故も起きている。だがこれは、誰も手が付けられないほど気性が悪化していたため、なかなか放牧させることすらできず、さらにストレスが溜まってしまった上での事故でもあった。騎馬文化の欧州人と違い、農耕民族だった日本人は子どもの頃から馬に接する機会が少なく、当時はまだ正しい馬の扱い方を熟知できていなかったことが、この種牡馬の扱い方を間違ってしまったとも考えられる。
その昭和の時代には、競馬場の厩舎でも馬に暴力を振るうような調教師、厩務員、騎手がいたこともまた事実だ。今回「子馬に虐待などあり得ない」と声を上げている関係者の中にも、そんな過去があったことを知っている人もいるはずだ。子馬であろうと、成馬であろうと、気性の激しい種牡馬だろうと、いまは絶対に馬に対して暴力を振るってはいけない時代だということ、それこそが本当の育成であるということを再認識するために、この騒動を活かしてもらいたいと思う。